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談志さん喉頭がんで死去 最後は気管切開 主治医に「しゃべりたい」

2011.11.24

 歯に衣(きぬ)着せぬ発言でも知られた人気落語家で、元参議院議員の立川談志(たてかわ・だんし、本名松岡克由=まつおか・かつよし)さんが21日午後2時24分に、喉頭がんのため、都内の病院で死去していたことが23日、分かった。75歳だった。東京都出身。葬儀・告別式はすでに近親者によって執り行われた。昨年11月のがん再発時に親族が余命2、3カ月の宣告を受けていたという。“家元”の死を受け、弟子の立川志の輔(57)は涙を浮かべながら思い出を語った。後日、都内でお別れの会を開く。

 「破天荒」「毒舌」「風雲児」…さまざまな形容詞が付いた談志さんの、波乱に満ちた生涯が幕を閉じた。長男で、所属事務所・談志役場の社長・松岡慎太郎さん(45)と、長女で元タレントの松岡弓子さん(48)が23日夜、都内で会見。偉大な父の闘病生活を語った。

 昨年11月、喉頭がんが再発。この時点で親族は余命2~3カ月の宣告を受けたが、本人には知らせなかったという。「落語家が声を失うことはプライドが許さない」という希望で声帯摘出手術は行わず、高座へ上がり続けたものの、今年3月6日の一門会での「蜘蛛駕籠(くもかご)」を最後に活動を休止した。

 高座からは離れたが、雑誌「週刊現代」で連載「立川談志の時事放談」を持ち、執筆活動は続けていた。同誌編集部とは長男・松岡慎太郎氏を通じ、FAXで毎週、手書きの原稿を送っていたという。談志さんの健康を気遣い、編集部から休載を提案したこともあったというが、一度も休載することなく、今月21日発売の最新号まで続いた。

 3月下旬に、がんの進行による呼吸困難に陥り、気管切開手術を行った。ノドに管を通したことで、ほとんど声は出せない状態となり、筆談が中心に。「どうしてこうなったんですか。しゃべりたい…」と主治医に訴えることもあったという。

 談志さんも病魔には勝てなかった。5カ月間の自宅療養後に入院。10月27日に容体が急変すると、およそ3週間、一度も意識が戻ることなく、今月21日に家族にみとられ、息を引き取った。闘病生活中、弱音は一切吐かなかった。

 葬儀は23日午後、談志さんが望んだ家族葬として営まれた。談志さんは紋付きはかま姿で、手に扇子を持ち、棺にはトレードマークのバンダナやぬいぐるみが収められた。戒名は、生前に本人が考えていた「立川雲黒斎(うんこくさい)家元勝手居士」。談志さんの遺志で、海に散骨されるという。

 談志さんは1952年、五代目柳家小さんに入門。テレビ番組「笑点」の司会で人気者になり、政界にも進出した。晩年はがんとの闘いでもあった。97年に食道がんが発覚して摘出手術。08年になって喉頭がん(声門がん)を発症した。治療したものの、昨年11月に再発。弟子にも病状は説明せず、気丈に病と闘い続けた。落語界で強烈な個性を発揮した天才が、静かにこの世を去った。


 訃報です。

 落語家の立川談志(たてかわ・だんし)さんが21日午後2時24分に、喉頭がんのため、都内の病院で死去していたことが分かりました。

 ご冥福をお祈り申し上げます。

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